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ネットを上手に使ってねっと
僕のホームページ『はんちはんかい備忘録』のいちコーナーに、「やまかわたんぼやしま」ページを加えたのが3年前の4月1日。

それを記念してというほどのことでもありませんが、インターネットをめぐる矢島町のことについてしばらくあれこれしてみます。

名づけて「ネットを上手に使ってねっと」。

お暇なときにでも読んで下さるとうれしいです。↓

「やまかわたんぼやしま」のトップページ
| はんちはんかい備忘録 | 20:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
長谷川深造ネット展のお知らせ
長谷川深造展



653のHPでは11月5日から12月15日までネット展『長谷川深造』を展示しております。↓

はんちはんかい備忘録

長谷川時雨の父長谷川深造は、主に三つのことで注目を集める。ひとつはいうまでもなく、明治大正昭和の女流作家長谷川時雨の父として、第二には浮世絵師歌川国芳から絵の手ほどきを受けた江戸人情絵師として、そして最後には、わが国の法制度草創期のもとで活躍した弁護士として。

江戸の残像か明治の先駆けか

北辰一刀流の使い手
江戸画家そして
弁護士
| はんちはんかい備忘録 | 19:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
山谷掘辺り7
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樋口一葉のこと1   おけぐちいっぱの時代

五千円札のモデルに選ばれてからはそうでもなくなったようですが、樋口一葉はそれほど知られた人物ではありませんでした。

学生のなかには樋口一葉を「オケグチイッパ」と読む輩もいて、学校の先生はまず「ヒグチイチヨウ」と読むことから教えたのだそうです。

いまは生活用具のなかから桶が消えましたから、そういうまちがいも起こることはなくなり、むしろ桶を「オケ」と読めたらほめることになるのではないか。

一葉の代表作である「たけくらべ」や「にごりえ」や「大つごもり」や「十三夜」や、それやこれやを読んでみて、その上に永井荷風だの、久保田万太郎だの、馬場胡蝶だのの一葉批評の文章などにも目を通してみて、まずはこれで自分も一葉読みのはしくれ(一葉を読んだことがないわけではないという意味で)にはなれたかと思いました。

考えてみると、女性の小説家というのは「源氏物語」の紫式部以来一葉にいたるまで絶えてこのかたいませんでした。この間ざっと九百年。中世の貴族文化から一気に近代の明治まで飛んで登場したのですから、一葉の存在はいかにも大きい。

一葉が生きたのは明治五年から二十九年まで。明治の前半期といっていい時代ですが、それでも、この間には自由民権運動があり、鹿鳴館の欧化運動が起こり、大日本帝国憲法が制定され、帝国議会が開かれ、日清戦争が行われました。

明治時代が封建制から近代へ実質的に変容していく、そうしたなかに一葉は生きていたわけです。

一葉の日記を読むと、彼女がこうした社会のできごとに決して無関心でなかったことがわかるのですが、しかし、彼女の小説にはそうした政治的事件を思わせるようなところは、主要作品を読む限り、微塵もありません。

彼女が描くのは、子供の世界だったり、遊女の情感だったり、下女の窮地だったりと、いわゆる人情話とでもいうべきものです。ただ、どの小説にも通底していることがあって、それは貧乏であるということでしょうか。

その貧乏がどこからやってきたのか、なにを原因として彼らを貧しくしているのか、一葉にはそういうことを分析して示す力も関心もなかったようですが、しかし、一葉は大いなる同情をもって、目の前の貧困というものをみつめ、描いてみせた。

このことだけでも、一葉は明治の文学を代表するにたるえらい人だったと、僕などは思うわけです。

一方で、こんな偏屈な一葉評価ではなく、文学文芸として堂々と一葉を評価している人たちもいます。久保田万太郎などはその代表例でしょう。

なんでも、慶応義塾で一葉の「たけくらべ」を教えたことがあった。その講義の仕方たるやまるで「たけくらべ」をなめるように教えたのだそうで、一年だけの授業では到底時間が足らなかった。あの調子で授業を進めていたらまず「たけくらべ」を終わらせるのに三年はかかっただろうなどとうわさされたそうです。

僕などはこの久保田万太郎の一葉論で、一葉の読者は「もって瞑すべし」だと思うのですが、どうもそうでないらしい。


深緑色は『はんちはんかい備忘録』HPからの記事です。
はんちはんかい備忘録




| はんちはんかい備忘録 | 14:11 | comments(0) | - |
長谷川深造ネット展
長谷川深造展



653のHPでは11月5日から12月15日までネット展『長谷川深造』を展示しております。↓

はんちはんかい備忘録

長谷川深造展の紹介文




長谷川深造は天保十三年江戸難波町に生まれた。商家の子だったが、丁稚奉公が性にあわず、お玉が池の千葉道場に通って北辰一刀流を学んだ。江戸城開時には警護番になったという。

 早い時期から自由党立党運動に加わり、明治十一年には免許代言人試験に合格、弁護士となった。さらに、二十八年からは東京市会議員をも勤めた。しかし、三十三年に起きた市会議員汚職事件で有罪判決を受け、政界から身を引き、また弁護士も辞めて佃島の相生橋のふもとに隠遁した。

 長谷川深造のことは、主に三つのことで注目を集めるだろう。ひとつはいうまでもなく、明治大正昭和の女流作家長谷川時雨の父として、第二には浮世絵師歌川国芳から絵の手ほどきを受けた江戸人情絵師として、そして最後には、わが国の法制度草創期のもとで活躍した弁護士として。

 今回のネット展では、そのうち長谷川深造の法律家としての側面にスポットライトを当てたかたちとなった。

 とはいえ、わかったことはそれほど多くない。

 深造の代言人修行のこと、また、東京市会汚職事件の政治的背景などは、知りたくても手の届かないところとして残してしまった。  

 いっぽうで、娘長谷川時雨の思い出のなかでしか語られることのなかった深造を、ほかの資料に照らして歴史の明るみに引き出して見せたことは、完全ではないにしても、できたものと思うがどうだろうか。
| はんちはんかい備忘録 | 06:20 | comments(0) | - |
山谷掘辺り6  人力車夫の生活費
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次に三五郎一家の生活費はどのくらいかかったものか。

『日本の下層社会』は一例として明治三十年十二月の「一人の老婆、二人の子供を有てる人力車夫」の一日の生活費用を示しています。

米代 二十八銭六厘
石油代 八厘
薪代 二銭五厘
炭代 三銭
朝の汁 二銭
家賃 四銭
オカズ 五銭

合計四十五銭九厘。著者の横山源之助はこれに註を加えて、「酒代、タバコ代、衣服費、子供の小遣い」は加えていないとしていますが、僕などは学校の授業料はどうなっているのだろうかという疑問も付け加えておきたい。

生活費のなかにおける米代の割合の高いことに驚かされますが、そうであるだけに、子どもが六人もいる三五郎一家の生活が、父親の稼ぎだけでは立ちゆかないのは容易に想像できます。

かくて、長男の三五郎は十三歳で働くことになるのですが、「内証の車は商売ものの外なれば詮なく」、車引きにはなれずに、活版所をはじめとしてあちこちに奉公に出されるものの、辛抱が続かなくて定職には就けないでいる。

となれば、長屋暮らしの家計の助けはもっぱら母親の細腕にかかることになります。「たけくらべ」からは、三五郎一家の母親の存在は不詳―とはいえ、いないと推測する理由はない―ですが、一方で、一葉は「かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や」では少なくない家庭が一年中、大鳥神社の酉の市用の熊手作りの内職をしているようすを描写しています。

なお、一葉は「にごりえ」のなかで、吉原近辺にある貧乏長屋の様子を次のように描写しています。引用は愚か者の所為ですが、一葉の文は音読の楽しみもあるといいますから、音読みが正しくなるように書き改めて引用してみます。

同じ新開の町はずれに、八百屋と髪結い床が庇合(ひあわい)のような細路地、雨が降る日は傘もさされぬ窮屈さに、足もととてはところどころにどぶ板の落とし穴危うげなるをなかにして、両側に立てたる棟割長屋、突き当たりのごみ溜めにわきに九尺二間の上がり框(がまち)朽ちて、雨戸はいつも無用心のたてつけ、さすがに一方口にはあらで、山の手の仕合せは三尺ばかりの縁の先に草ぼうぼうの空き地面、それが端を少し囲って、青紫蘇、えぞ菊、隠元豆の蔓などを竹のあら垣にからませたるがお力が所縁の源七が家なり。

これには加えて本稿右上の挿画も参考にして下さい。

ちなみに源七も車引きであり、源七の妻のお初は子どもひとりを抱えて内職をしているという設定です。なお、「お力」というのは遊女のことで「にごりえ」の主人公です。

結局、一葉の「樋口屋」が商売相手にしていたのは、あるいは「たけくらべ」のなかの「筆屋」に集まってきていたのは、ここに見てきたような生活背景をもつ子どもたちでした。

 そういった子どもたちが毎日のように一葉の店にやってくる。「子どもたちの呼ばわる声はセミがミーミージージーと鳴き立つようだ」と一葉は日記に書いていいますが、同時に彼らは二厘三厘の客だともいう。

 二厘三厘の客で五十銭の売り上げを出すためには日に百人以上の相手をしなければならない。それでも五十銭は下層民の代表たる職種の車引きと同じ。いや、利益という点では車引きにも及ばない。

 ああ、もうやっていられない、こんな分厘の商売なんか。と最初に音をあげたのは妹邦子でした。一葉の母親も、こんな塵の中でうごめいて暮らすのなんかやめにして小さくてもいいから門構えのある家に住んで、柔らかい着物を着て暮らしたいと妹に同調する。

 ここのお店をやめたらどうなるの、一銭だってもう手に入らないんだからね。と一葉は反発してはみるものの、ただただ忙しいだけの生活に展望を見出すことができない事実の前には、母と妹に同意せざるを得ませんでした。



深緑色は『はんちはんかい備忘録』HPからの記事です。
はんちはんかい備忘録



| はんちはんかい備忘録 | 13:37 | comments(0) | - |
山谷掘辺り5   人力車夫の収入
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↑横山源一郎

江戸から明治に政治体制が変わったときに、世の中から置き去りにされてしまった人たちがいました。

そういう人たちの生活のようすの一部は、岩波文庫の『明治東京下層生活誌』や『日本の下層社会』で知ることができます。

これらの本を読むと、明治の東京にはいたるところに貧民街があったことがわかります。『日本の下層社会』の教えるところでは、四谷鮫ケ橋、下谷万年町、芝新網町が東京の三大貧民窟でした。

また『明治東京下層生活誌』は、貧民街に住んでいるものの職業の第一は人力車引きだと断じています。『日本の下層社会』でも、車夫は人足・日雇稼ぎに次ぐ下層民の職業だと書いています。

このように、明治にあって、人力車夫というのは東京の下層民の代表的職業でしたが、車夫は、一葉の小説のなかにもあちらこちらに登場しています。

「たけくらべ」の三五郎の父親のことはいうまでもなく、一葉の代表作とされている「十三夜」にも「にごりえ」にも、重要な登場人物のなかには車夫がいます。

「十三夜」の高坂録之助は、主人公であるお関が結婚したための失意から身を持ち崩して車夫になっている。また、「にごりえ」の主人公お力を殺して自分も自殺する源七も、お力に入れあげて車夫にまで身を持ち崩してしまった男でした。

東京の貧民というのは、いわゆる九尺二間の長屋に住んで、ほとんどその日暮らしをしているもののことをいうのですが、「にごりえ」の減七の家族(夫婦に子どもひとり)はまさしく九尺二間の長屋に暮らしています。「たけくらべ」の子どもたちも大半は「かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や(屋)」に住んでいたはずです。

なかでも三五郎は、『明治東京下層生活誌』や『日本の下層社会』の著者たちが喝破する貧民街の最たる職業、車引きの子どもでした。

父は近所では「お辞儀の鉄」とあだ名される気弱者。吉原の入り口である五十間通りに車を寄せて、吉原に通う客相手に比較的安定した客筋をつかんではいましたが、なにせ子どもは三五郎をかしらにつごう六人。折りあるごとに質屋の世話になっている暮らしぶりです。

そこで人力車夫の生活はどのようなものであったかをちょっと調べてみました。

『日本の下層社会』によると、人力車夫といってもさらにおよそ三つの階層に分けられるのだそうです。ひとつは雇われ車夫のでこれを「おかかえ」とか「やど」と呼ぶ。月給は十二〜十五円。これは固定給ですから食いっぱぐれがない。次は「ばん」と呼ばれるもので、「一定の駐車場にむらがれる一団の株車夫」のこと。一日に約五十銭の収入があった。最後に「もうろう」。これは自前の車をもたないものが車を借用してもっぱら夜にかせぐ車夫のことをいった。かせぎは五十銭ほどになるが、車の借り賃が六〜十銭かかった。

「十三夜」に出てくる車引きの高坂録之助は、もとは煙草屋のひとり息子だったのが身をもち崩して夜の人力車引きとして登場してくるのだから、「もうろう」だったのでしょう。

では三五郎の父である「お辞儀の鉄」の場合はどうか。「たけくらべ」には「五十間によき得意場は持ちたり」とあるから、鉄は「ばん」の車夫だったらしい。五十間というのは日本堤から吉原大門までの辺りのこと。吉原帰りのお客の拾い場になっていた。

『日本の下層社会』にも「ばん」の成立したところとして「衣紋」が挙げられていますが、日本堤から吉原大門までは「衣紋坂」とも呼ばれていたので、一葉のいう「五十間の得意場」とは「衣紋ばん」のことだったのでしょう。してみれば、三五郎の父は日に五十銭ほどの収入があったとみてよい。


深緑色は『はんちはんかい備忘録』HPからの記事です。
はんちはんかい備忘録

| はんちはんかい備忘録 | 16:00 | comments(0) | - |
山谷掘辺り4  横町本町小遣い事情
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横町本町小遣い事情



一葉が下谷竜泉寺町の大音寺前で雑貨屋を開いて日銭四十銭ばかりを稼いでいた同じ年のことですが、漱石は帝国大学文科大学英文科に在籍しながら、東京師範学校の英語教師のアルバイトをしていました。このときの漱石の年俸は四百五十円。月給にして三十七円五十銭です。

 漱石は明治二十八年四月に松山中学に赴任しましたがそのときの給与が校長の六十円をはるかにしのぐ八十円でした。同じ年、一葉は大音寺前で経験したことをもとに「たけくらべ」を書いて『文学界』に連載しています。

 雑誌『文学界』は、北村透谷や島崎藤村らの文芸雑誌。若い彼らがどれほどの原稿料を一葉に払っていたものか不詳ですが、明治二十五年に『都の花』に載った「暁月夜」の場合は一枚三十銭でした。「たけくらべ」は七十五枚の分量だからもし同条件で原稿料が入っていたとすれば二十二円五十銭になっていたはずです。

さて。一葉が『樋口屋』で相手にしたお得意さんたちとはどういう人たちだったのでしょうか。たけくらべ」には子どもたちのたむろする場所として「筆屋」という文房具屋が出てきます。筆屋は一面樋口屋のことでもあったでしょうから、いまここに筆屋に出入りしている子どもたちを数え上げてみます。。

美登利:吉原に遊郭を構える大黒屋の寮に暮らす。
信如: 龍華寺の子ども
正太郎:高利貸田中屋の子ども
長吉: とび職の頭の子ども

以上が比較的裕福な家庭の子どもだとすれば、以下はその日の暮らしにもこと欠くような細民の子どもたちです。

三五郎: 車屋の子ども
丑松:  車屋の子ども
文次:  元結の子ども
頓馬:  団子屋の子ども

このような子どもたちが「たけくらべ」のなかの筆屋の、一葉の現実生活のなかでは樋口屋のお得意さんたちでした。

このなかで、いわゆる子どもの「無駄遣い」ができるのは花魁の妹の美登利だけ。ほかはそれぞれに生活レベルと必要の度合いと相談しながらお金を使っています。

では、子どもたちはどれほどの小遣いをもつことができたか。

しかし、この問いに「たけくらべ」はほとんど答えてはくれません。お金のことはまったく書かれていないのです。それでも、たった一箇所だけ金額がはっきり書かれているところがあります。

それは、三五郎が「頭の家の赤ん坊が守りをして」もらう駄賃で二銭だと書いてある。三五郎は十六歳。それが終日赤ん坊を背負ってねんねんころり、おころりよと子守をしてもらったお金が二銭。三五郎はこれをたいへんうれしがっています。

「たけくらべ」が美登利と信如の淡い恋物語であることは、ことさらに強調するまでもないことですが、一葉はそれとは別に、三五郎のことにもずいぶん紙幅を使っています。

一葉の「たけくらべ」をめぐってはさまざまな文学論議がありますが、そうしたなかのひとつに、「たけくらべ」の主人公はだれかという、まさかと思うものもあるらしい。「たけくらべ」なら主人公は美登利と決まっているだろうと思っていたら、どうもそう単純なものでもないようです。

ある大学の先生のお話には、「たけくらべ」の主人公は車引きのせがれ三五郎だという主張もあるとのこと。そこで、次回はアルバイト代二銭をかせぐ三五郎を代表に、筆屋=樋口屋に集まる子どもたちの生活事情を考えてみます。


深緑色は『はんちはんかい備忘録』HPからの記事です。
はんちはんかい備忘録

| はんちはんかい備忘録 | 09:20 | comments(0) | - |
山谷堀辺り3 樋口屋の収支 
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竜泉時代一葉の家(左半分)
二十五年の生涯をお金とは無縁のなかで暮らした一葉。そのなかでも、もっとも困窮にあえいだ時代が下谷竜泉寺村で暮らした十ヶ月でした。

六畳、五畳、三畳の三室の間取りで一円五十銭の家賃。それまでの本郷菊坂の家が三円、またそのあとの本郷丸山福山町の家がやはり三円であったことと較べれば、家賃だけでも一葉一家の困窮のようすが見えてきます。

一葉は借家の六畳の部屋に金物、雑貨、お菓子の類を並べて商売を始めました。元手は五円でしたがそのお金さえなかなか工面がつかず、やっと品物を店先に並べることができたのが、引っ越してから半月後のことでした。

一葉はもともと士族の娘。商売は初めてでしたから最初は勝手がわからず、「五厘の客に一銭のものをうり一銭の客に八厘のものをだす」というありさまでした。 それでも、客足は日に日に繁くなり、多いときは一日に六十銭、平均でも四十銭ばかりの売り上げをみるようになりました。

いま一日の売り上げを平均四十銭だとすると、月にして十二円の売り上げになります。かりに仕入れ値が五割だとすれば手元に残るのは六円。家賃が一円五十銭でしたから、曲がりなりにも自由に使えるお金は四円少々ということになります。 母と妹と一葉は竜泉寺時代を月四円ばかりで暮らしていたわけでした。

いや、厳密にはそれまでの借金の返済もあって、おそらくは四円の半分も自由にはならなかったようです。 折に触れて頼まれる洗い物や仕立物のアルバイトが生活の足しになっていました。

一葉は早朝に問屋に出向いて商品を仕入れ、帰宅してからは店番をするという生活でしたが、彼女の店『樋口屋』には近所の腕白連が入り浸るようになります。はきはきとした一葉、やさしいお姉さんのような一葉の妹邦子が相手をするのですから、子どもたちにとっても魅力的な遊び場だったのでしょう。

「たけくらべ」では「筆屋」が子どもたちの溜まり場ですが、「筆屋」のイメージのいく分かは『樋口屋』を下敷きにしているのかも知れません。

順調に売り上げが伸び、軌道に乗ったかにみえた一葉の樋口屋でしたが、半年も経たないうちに、急に客足が遠のいてしまいました。理由はご近所にもうひとつ樋口屋と同じ雑貨屋ができたからです。

若いお姉さんが小町ぶりを発揮してなんとか客足をつないでおくことができなかったものか。そうも思うのですが、このころになると、一葉や妹の邦子の方に商売を続ける気持ちがだんだんなくなってきていました。

一日四十銭を売り上げて見たところで生活は少しも楽にならないことがわかってきたからです。と同時にもうひとつ見逃せない理由がありました。

竜泉寺という地域の購買力の限界です。 新しいお店ができて樋口屋は苦境に立たされましたが、しかし、半年前樋口屋ができたときには、それまであったこの地域にあったお店がふたつ潰れていました。竜泉寺地区に雑貨屋はいくつも要らなかったのです。



深緑色は『はんちはんかい備忘録』HPからの記事です。
はんちはんかい備忘録

| はんちはんかい備忘録 | 08:43 | comments(0) | - |
山谷掘辺り2  『たけくらべ』一葉
『明治文学全集』の第三十巻『樋口一葉集』の「解題」によると、岩波文庫の『にごりえ・たけくらべ』は、長期にわたる最大のベスト・セラーだったのだそうです。

昭和四十七年のことですが、たいした読書家でもない自分の本棚の中にもあるくらいですから、なるほど岩波文庫中最大のヒット作であることに合点がいきます。

「にごりえ」と「たけくらべ」のなかでも、一葉の代表作といえば、「たけくらべ」の方で、この小説をひとことで紹介すれば、美登利という十四歳の少女の淡い初恋のお話である。こういっていいのでしょう。

これを書いた一葉、当時二十四歳。お話は彼女が筆を執る前年の十ヶ月ばかりを暮らした下町で、見聞きした子どもたちの様子をもとにしたもの、といえばステレオタイプの少女ロマンを思い浮かべてしまいがちですが、けっしてそうでない。

なぜそうでないのか。もしこの答えをただちに知りたい人は、ネット検索で、たとえば「樋口一葉&たけくらべ」と入れてみるといい。

ただ、僕などは文学的に語られる「たけくらべ」の秀逸さに驚いたのではなくて、もっと別の点に、一葉ってただ者じゃなかったんだなあと驚いたのです。そのことをおいおい語っていきたい。

「たけくらべ」の主人公はなんといっても美登利ですが、美登利以外にも主人公に準ずる役割を与えられた少年たちがいます。

諸兄諸姉を前にして申し上げるのはいささか口幅ったいのですが、ここに「たけくらべ」の登場人物を紹介しておくと。

まず美登利が恋心を抱く信如というひとつ年上の少年がいます。次に長吉という乱暴者。これは信如の家である龍華寺の寺域に住んでいて、龍華寺の威光を袈裟に着て乱暴を尽くしている。

一方長吉と対立するのが美登利と幼なじみの正太郎。質屋の子どもで美登利よりもひとつ年下。町内では裕福な家の子ども。学校も仲間うちではひとりだけ公立の小学校に通っている。

ほかにもなん人かの少年が登場するのですが、面白いのは三五郎。遊び仲間は正太郎でもみっつも年上。一方借家の持ち主は長吉の父。生活のテリトリーと遊びのテリトリーがちがうために、大変切ない立ち回り役。

お話は長吉の「横丁」派と正太郎の「表」町派の対立抗争を軸に展開します。一方のマドンナが他方の御大将に恋心を抱くというのですから、映画ウエストサイドストーリーとも、シェークスピアのロメオとジュリエットにどこか通ずる筋書き。

ただ、「たけくらべ」が単なる青春ロマンに終わらないのは美登利の青春の昇華の仕方にあります。 町内の子どもたちが野放図なけんかごっこで憂さ晴らしをしている、一見、予定調和的な子どもの世界は、じつはとんでもなく非情なおとなの世界と隣りあわせなのだということを、一葉は美登利の体験を通して読者に訴えてきます。

しかし、この筋を追えば僕などもいやおうなく文学論に入らなければならなくなりますので、「たけくらべ」の概説はこのくらいにしてやめます。



深緑色は『はんちはんかい備忘録』HPからの記事です。
はんちはんかい備忘録

| はんちはんかい備忘録 | 10:12 | comments(0) | - |
山谷掘辺り1  川のない橋今戸橋
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今戸橋跡
左手の隅田川から右手に山谷掘が伸通じていた


 墨田公園の隅に埋もれているが、隅田川の西岸台東区側の言問橋と桜橋の中間あたりに太い親柱が二本立っている。いまは川のない橋となってしまった今戸橋の親柱です。

かつてこの橋の下を流れていた水は、昔は石神井川の水を運んでいたのですが、いつのことからか掘割となり、さらに上流からだんだんと埋め立てられて、最後まで残っていた隅田川よりの一部も昭和五十年代のはじめまでには全部陸地に変わってしまいました。現在は山谷掘公園として直線に伸びるその姿にかつての川の姿を留めているだけです。

江戸のころより山谷掘と呼ばれたこの水路は、遊郭吉原への江戸中心部からの通い道でした。遊び客たちは神田川の最端部の浅草橋や柳橋から船足の速い猪牙舟を仕立てて隅田川をさかのぼり、吾妻橋をくぐってしばらく遡行してから左に折れて今戸橋をくぐり、山谷掘を半里ほど進んで吉原大門近くの土手で舟を降り、衣紋坂と呼ばれる土手を下りさらに五十間歩いて吉原大門の前に立ったのでした。

ところで、ここに吉原というのはいわゆる新吉原のこと。十七世紀中ごろに起こった明暦の大火で元の吉原が消失したあと、幕府の命令で強制的にここに移転させられたものと聞いています。

世の中にないに越したことはないがなければ困るもののことを必要悪といいますが、吉原などは必要悪の冠たるものでした。なにせ江戸はその成り立ちからして男所帯の町、慢性的な女性不足に悩まされていたのですから。

吉原は昭和三十年のはじめまで存在していました。およそ四百年の歴史を保っていたことになります。永井荷風などは昭和の吉原などはもう吉原ではなくなったなどと嘆いていますが、その荷風にいわせると、江戸の吉原のことは山東京伝、明治なら広津柳浪の「今戸心中」、そして樋口一葉の「にごりえ」「たけくらべ」だそうです。

僕など文学にはとんと無縁のもので興味とてこれっぽっちもあるものではないのですが、たまたま明治の生活や思想といったものには関心がある。

たとえば、このHPのテーマのひとつである『五大法律学校物語』ですが、広津や一葉が描いた明治二十年代後半の吉原は、同時に専修、法政、明治、早稲田、中央の各大学の草創期でもありました。当然これらの学校の生徒たちは吉原とは無縁ではなかったはずです。生徒たちばかりか先生たちだって無縁ではありませんでした。

早稲田の高田早苗はいっとき吉原から学校に通っていたといいます。同じく坪内逍遥は計略を用いて遊女を郭の外に連れ出して結婚しました。

明治の岸本辰雄は大審院判事のとき遊郭で花札賭博をやったという科を受けて裁判沙汰に及んでいます。

文芸の対象としての吉原ならさして興味もありませんが、明治の社会現象としての吉原なら少なからず興味を覚えます。

僕の場合、明治の吉原への入り口は一葉の「たけくらべ」。まずはこれをてがかりに吉原、そしてその周辺の「明治」を探ってみます。


深緑色は『はんちはんかい備忘録』HPからの記事です。
はんちはんかい備忘録

| はんちはんかい備忘録 | 14:23 | comments(0) | - |
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